前掲「金木屋日記」によって、年越しと小正月の料理をみてみたい。この日記によれば、幕末の安政元年(一八五四)十二月晦日の昼は、家族と酒造りの杜氏(とうじ)など五〇余人の使用人とともに、平椀(ひらわん)に盛りつけた鱠(なます)(材料は凍豆腐(こおりどうふ)・人参(にんじん)・牛蒡(ごぼう)・塩鮭)と鱈のジャッパ汁であった。夜は昼と同様大勢で、おかず三種(中味不明)に吸物(すいもの)でお酒を飲み、さらに副食物として鱈の刺身、黒のり、蛸(たこ)ともやしが盛りつけられた砂鉢(さはち)(浅い大きな皿か)、加藤(かとう)(鮫の一種か)・凍豆腐・人参・牛蒡の煮染(にしめ)の入った丼、大丼(材料不明)、塩鮭と凍豆腐の吸物が並べられた。日記に書き留められてはいないが、昼夜ともに主食はカデメシではない白いご飯であったのではなかろうか。
小正月の十五日には商家では小豆粥(あずきがゆ)に餅を食べるという。この日に金木屋武田家では年越しをしている。安政二年一月十五日の昼の献立は、塩鮭・凍豆腐・牛蒡二切・人参二切・わらびの入った平椀、塩鮭(焼いたものか)、鱠(例年通りとあり材料は不明)、鱈・白魚・大根の入ったジャッパ汁とみえている。家族と酒造りに従事している四〇余人のにぎわいである。夜には鱈の刺身、なまこ、海つぶの煮染の三種の肴に酒が出されている。昼・夜ともに主食は記されていないが小豆粥だったのだろうか。
安政五年一月十五日には、昼に例年どおり年越しの食膳を囲んだことが記され、夜には使用人の若者たちへ鯖(さば)の鮓(すし)丼、鱈の刺身、小さな帆立貝の身・凍豆腐・人参・牛蒡の煮染丼、という三種の肴に酒が出されている。
右に述べた年越し料理から考えると、寛政二年(一七九〇)以後にみえる、常に一汁二菜と規制された食事は必ずしも厳守されたのではなかった。