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紫草(むらさき)の根を乾燥して染料とした紫根染(紫染)も古くから珍重されてきていたが、一般にその技法は難しいとされている。「国日記」では自生の紫根の掘り取りや移出についての記述は認められるが、染めについては武具・馬具の一部などごく限られていた。
 移出については延宝五年(一六七七)、御として領内自生の紫根を集荷して江戸に登らせた例があり、紫根買上役を設け自生状況や採取時期の調査に当たらせている。江戸商人らの買い入れもあったが件数は少ない。
 栽培については、新館(にいだて)・広船(ひろふね)・町井(まちい)・唐竹(からたけ)といった平賀町四ヵ所を拝借のうえ、御としての紫の栽培を願い出ている例はあるが、願い出人が紫染めの巧者ではないことが知られて沙汰止みとなったという。