細工所は先に触れた慶安二年の「弘前古御絵図」の二ヵ所、および元禄十五年(一七〇二)の「弘前惣御絵図」(弘図郷)では、前記古絵図のかわら屋二ヵ所のほぼ同じ場所に、瓦ヶ町一丁目の通りに面して一ヵ所が記されている。細工所は瓦の需要に応じて拡張・縮小あるいは新築・撤去および修復等が行われていた。場所は聖愛高校の跡地付近である。
細工所の規模について二、三例を挙げよう。前述の絵図と同時期の記録ではないが、享保十三年(一七二八)四月の記録では、瓦屋小屋懸(こやかけ)四間(約七・三メートル)に一八間(約三二・七メートル)。元文五年(一七四〇)では三間(約五・四メートル)に九間(約一六・二メートル)のところ、手狭のため三間に六間の製品置場を増設しているが、全体としては前と同様、三間に一五間(約二七・二メートル)の長方形をなしている。時代はさかのぼるが、惣御絵図とほぼ同年代の元禄十七年(一七〇四)には、水流をはさんで北隣りにある森山彦七(もりやまひこしち)の屋敷(「弘前惣御絵図」の中に認められる)のうち、四間(約七メートル)に一〇間(約一八メートル)の場所を借用して仮小屋を建て、成形された生瓦の乾燥場に当てていた。
図152.瓦ヶ町の御瓦細工所周辺図
(右上に森山彦七の屋敷がある)