次いで安政六年(一八五九)二月二十八日、学問所に蘭学堂付設の触れが出され、家中の子弟、在・町の医師の子弟のうち医学・西洋学に志ある者の入学を督励している。蘭学堂の教授には亀甲町の町医佐々木俊庵の子佐々木元俊(一八一八~一八七四)が迎えられた。元俊は嘉永元年(一八四八)、修学を志して江戸に登り、兼松成言に認められ、その尽力によって杉田成卿に入門し、蘭学を修めた。彼の蘭学に対する抜群の才は幕府の認めるところとなり、物産局への出仕を慫慂(しょうよう)されたが、藩は断った。蘭学堂への抜擢がその理由であろう。元俊は蘭学のみならず、英学、西洋医学をもって後進を指導し、種痘の普及にも努めた。文久二年(一八六二)三月には彼の尽力で「種痘館」が増設された。他に化学精錬場の設立、朝鮮人参の栽培、火薬の調整等々実に幅広く活躍した。クラメルスの蘭語辞典を「蕃語象胥」と題して復刻したほか、「練鉄訓象」「元生舎密」「地学全書」などの著訳書を残している。