乳井は効用性ということを重んじ、「用」に立つか否かを価値判断の基準とした。「用に立つ」という場合、役に立つとか有用な働きをするといった意が第一義的には考えられるが、乳井においてはそれとともに、すべてのものにはそれぞれに負わされた務めとしての「用」があり、その「用」を十全な形で担い果たしていく(「功ノ実現」)、といった意味合いで「用に立つ」ということがいわれている。つまり乳井の思想においては、「用」という言葉は有用性という概念を含みつつ、それを越えて、人間として為すべき務め、役目、さらには天から下された使命(「天地の大用」)といった意味内容で使われている。すなわち「用」は「天地」というような超越的な次元から生ある者にさし下された、なすべき神聖な職務(「天命職」)として観念せられている。それゆえ、人は「天地の大用」を果たすべく努めることが強調される。
「五蟲論(ごちゅうろん)」という書物では、とにもかくにも「禍を免れ」ようと、老荘を聞きかじって自分を無用者と決め込み、出る杭は打たれるからと、ひたすら隠れて生きるゲジゲジに、カタツムリがこの世には「天神造化の霊より仰を蒙(こうむ)りたる一事の御用が有」ることを説諭するのが話の筋立てとなっている。乳井は一切の存在は各々何がしかの役割「分職」を「天」から「命」じられており、それを果たすべく義務付けられているとする。個人的な心情のレベルでの誠実さとはまた別に、職務に最善を尽くしその結果を自ら引き受けるべく、どこまでも責任の倫理が強調されるのである。主君は主君の、家臣は家臣の、農工商は農工商の、社会的責務を「天」に対して負うと考えられた。それゆえ「夫レ忠孝ニ身ヲ尽スコトハ是君父ノ為ニモアラズ、吾ガ為ニモアラズ。当(まさ)ニ勤ムベキ性命ノ定理」とカントの定言命法にも似た発言がなされる。かくして「好コトト云ハレン為」でもなく、「身ノ幸福ヲ得ル本手(もとで)ニ行フ為」でもなく、「正ニ行フ道ニ定リタルコト」であるから行為すべしという、崇高な義務の観念が強調されてくる。
乳井の思想においては、人間には「天」から命じられた「用」があるとされ、これを果たすべく、義務と責任が強調された。この点で注目されるのは、乳井の、豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士に対する痛烈な批判である。