秀吉の朝鮮出兵に対して、乳井はそれが「武道ノ正義」にかなった行為か否かを基準に判断していく。「武道ノ正義」とは何か。第一に人に対してはこれを教えて罪なき者を殺さず、第二に物に対してはこれを損なわず節制し、この二つをもって天地自然の偉大なる功業に参画すること、これが「武道ノ正義」であり、これが武士に課せられた責務である。
この観点に立った場合、秀吉の行為はどうか。朝鮮、明国は日本に何ら危害を加えていない。にもかかわらず秀吉が異国に攻め入り「罪ナキ異域ノ人幾千万ヲ殺シ、土地ヲ奪テ、吾ガ富トセン」とした事は「無道ノ至」そのものであり、まさに「強盗」「盗賊」の仕儀である。世間の多くは秀吉を「大器量」の武人と賞賛する。しかし民家に押し込んで物を略奪すれば「強盗」である。ましてや「国」に押し込んで物を略奪した者を「武道の誉れ」とでもいうのか。「一銭」を奪えば盗人、「大国」を奪えば英雄とでもいうのか。秀吉は「武道ノ正義」の何たるかをわきまえず、わが国を盗賊国にした張本人である。
このように朝鮮出兵を大義なき侵略行為として位置づけ、「武道の正義」という命題を前面に押し出して、秀吉の行為を非人道的なものとして糾弾していく乳井の論法には厳しいものがある。武将として持って生まれた気性・能力とはまた別の次元で、武将には武将として「大道」を実践していくにふさわしい「器量」がなければならない。そこのところを混同して、「今ノ士タル者ハ太閤ノ気風ヲ望テ武道ノ意気地ト貴ブ。噫哀(ああかなし)ヒ哉」と乳井はいう。この乳井の発言にはおのずと彼の武士理解が反映されている。単に戦闘能力に秀でた者を武士の「鑑」とみる見方はきっぱりと拒否されている。乳井は武将としての資質や気構え(「意気地」)の問題を超えて、武将としての道徳的責務を問題としているのである。乳井の秀吉批判の大きな特色は、武士の責務という視点が貫徹され、そこから論旨が組み立てられている点にある。