津軽弘前藩の蘭学は桐山正哲に始まる。桐山家は初代が信政時代に儒官として召し抱えられ、二代目から藩医として仕えた。四代正哲は明和七年(一七七〇)に家督(高一五〇石六人扶持)を相続し、表医となった。天明八年(一七八八)江戸詰の近習医となり、寛政九年江戸藩邸に弘道館が創設されると医学教官となり、文化二年(一八〇五)九月同館が休業するまで勤めた。正哲は前野良沢、杉田玄白とともに『解体新書』の翻訳に参画した。当時有名な蘭学者八〇人ほどを相撲の番付に見立てた「洋学者相撲見立番付」(寛政十年〈一七九八〉)には、「東方の年寄」に前野良沢、「西方の年寄」に杉田玄白の名があり、正哲は「東方の行司」に名が挙がっており、蘭学者としての彼の当時の評判の高さがおのずと知られる。