一、軒下ニ不浄場ヲ設クヘカラス。
一、道路川中等ヘ塵芥或ハ不潔ノ物ヲ捨ヘカラス。
一、道路川中等ヘ塵芥或ハ不潔ノ物ヲ捨ヘカラス。
一、小児或ハ老人等、丸ト唱候器ヲ寝所ヘ差置候由、不潔ナル而已(のみ)ナラス人身ニ害アリ、爾今難病廃疾等ノ外一切用ユヘカラス。
一、蟣虱ヲ食ヒ、或ハ煙中ヘ唾洟スルノ類是亦不潔ナルノミナラス人身ニ害アリ、之ヲ禁スベシ。
このような個人生活の微細な挙動に関する指示などは、容易に即効を期待できるものではなかった。しかし、同年九月には再び厳令を発して、「文明ノ日ニ当リ、他府県ニハ曾テ無之辺鄙ノ陋習、実ニ恥ズベキ事」であるから屹度(きっと)改めよ、今後巡回して違犯者は相当の処置をする、という布令が達せられた。それは前回の指令を中心にいっそう具体的に内容が示された。
一、大道ニテ立ナカラ尿スヘカラサル事。
一、暑中トイヘトモ途上ニ於テ袒裼(たんせき)裸体禁止ノ事。
一、軒下ノ不浄場速ニ可取除事。
一、途上並溝川等ヘ塵芥ヲ捨間敷事。
一、丸ト唱候便器ヲ寝所ヘ差置間敷事。
一、炉中ヘ唾洟スヘカラサル事。
一、湯屋ニ於テ頭上ヨリ湯ヲ掛ク間敷事。
一、途中或ハ坐上ニテ風呂敷様ノモノヲ冠ル間敷事。
一、蟣虱ヲ噛潰ス間敷事。
一、暑中トイヘトモ途上ニ於テ袒裼(たんせき)裸体禁止ノ事。
一、軒下ノ不浄場速ニ可取除事。
一、途上並溝川等ヘ塵芥ヲ捨間敷事。
一、丸ト唱候便器ヲ寝所ヘ差置間敷事。
一、炉中ヘ唾洟スヘカラサル事。
一、湯屋ニ於テ頭上ヨリ湯ヲ掛ク間敷事。
一、途中或ハ坐上ニテ風呂敷様ノモノヲ冠ル間敷事。
一、蟣虱ヲ噛潰ス間敷事。
県の布達に基づいて、弘前では明治五年二月、各町ごとに朝晩街道に水を打って清掃せよという達しが出た。そのころから邏卒(らそつ)(後に見廻役という)といって、羽織袴(はかま)で刀は差さず、二、三人連れで町々を巡回する役が置かれるようになった。後の巡査の始まりというべきもので、会津出身者が多かったという。
町を見廻って通りに馬糞やわらじ切れなどが捨てたままになっていると、すぐさまその前の家に入り、コラコラと呼んで掃除を言いつける。また、通りの堰の水を汲み捨てさせるなどして、なかなか取り締まりが厳しかった。そこで人々は彼らを「コラコラ」とあだ名で呼び、その姿が見えるとすぐ互いに知らせ合って掃除に出たりした。また、往来の立ち小便をとがめるのも彼らの役目であった。見つけられた者は氏名を聞かれ、巡邏役所(元寺町ののちの警察署の所)に呼び出されて、金二朱の罰金を取られたという。
しかし、たび重なる禁令罰則の濫発のために、民間の不平も高まってきたので、県では人心の離反を恐れ、八年一月から「細民ノ情ヲ斟酌シ、自今放尿罰金ノ義ハ差止メ」ということになった。
さて、翌六年十二月十五日に、重ねて「弊習洗除ノ儀」が布令になった。たびたびの指示が繰り返されているが、これまでの布達の内容が一応まとめられて、当時の新生活の指導目標を知り得るので、左に掲げておこう。
人民日常心得方ノ儀ニ付テハ、追々相達置候次第モ有之候処、未タ徹底不致向モ有之趣ニ付、更ニ別紙条々書ヲ以テ相達候条毎戸無洩触示シ、漸ヲ以テ右等ノ弊習洗除候様可致候事
第一条 訴訟其他百般ノ公事呼出之節、時限ニ遅延スル事
第二条 家宅外ノ不浮ヲ掃(はら)ハズ、及ビ道路ノ泥濘ヲ除ザル事
第三条 無口ノ馬ヲ先立テ、通行ヲ妨ル事
第四条 店先及ビ人ノ触目スル所ニテ虱ヲ取リ或ハ噛殺ス事
第五条 便器ヲ枕頭ニ置キ臥ナガラ尿スル事
第六条 湯屋ニ於テ入浴中、頭上ヨリ湯ヲ被ル事
第七条 便所設立ノ場ニテ他ノ街道或ハ溝渠ヘ猥リニ尿スル事
第八条 鬢髪ヲ残シ前頂ヲ剃ル事
第九条 頭巾或ハ帽ニ非ル風呂敷、編笠様ノ物ヲ以テ覆面スル事、但シ村落農業ヲ取リ候ハ此限ニ非ス
第十条 木刀ヲ佩帯スル事
第一条 訴訟其他百般ノ公事呼出之節、時限ニ遅延スル事
第二条 家宅外ノ不浮ヲ掃(はら)ハズ、及ビ道路ノ泥濘ヲ除ザル事
第三条 無口ノ馬ヲ先立テ、通行ヲ妨ル事
第四条 店先及ビ人ノ触目スル所ニテ虱ヲ取リ或ハ噛殺ス事
第五条 便器ヲ枕頭ニ置キ臥ナガラ尿スル事
第六条 湯屋ニ於テ入浴中、頭上ヨリ湯ヲ被ル事
第七条 便所設立ノ場ニテ他ノ街道或ハ溝渠ヘ猥リニ尿スル事
第八条 鬢髪ヲ残シ前頂ヲ剃ル事
第九条 頭巾或ハ帽ニ非ル風呂敷、編笠様ノ物ヲ以テ覆面スル事、但シ村落農業ヲ取リ候ハ此限ニ非ス
第十条 木刀ヲ佩帯スル事
(『青森県史』復刻版第八巻、歴史図書社、一九七一年)
右の条項のうち、木刀を帯びることを禁止する布令は、別に六年十一月八日にも出された。それによれば、木刀を帯びる者は、ややもすれば庶民の無礼をとがめて打擲(ちょうちゃく)することがあるので、「方今、万機維新ノ御政体上、右様蛮野汚穢ノ醜風有之間敷儀ニ候。之ニ依リ自今木刀佩帯ノ儀厳禁セシメ候」と達せられている。
やがて九年三月に帯刀禁止令が出た。これより先、四年八月に政府の「脱刀勝手たるべし」という布令が出ていたので、開化の世情に鑑み、刀を差すことを憚って、代わりに木刀を帯びる者が多かったのである。ところが、翌五年に徴兵令が発布されたので、陸軍の権限のためにも一般の帯刀を禁ずる必要が生じたのであった。帯刀は士族の特権の象徴であっただけに、士族の不満は大きかったが、平民にとってはこれこそ旧弊一新の思いであったろう。