次いで布達されたのは、ねぷた祭禁止の布令(明治六年七月)であった。『片谷惣三郎御用留』によれば、その内容は次のとおりである。
従前七夕祭ヲ俗ニ禰(ね)ふたと唱、種々偶像ヲ作造シ、市中徘徊候砌数人群集其中ニハ酒興ヨリ殴闘ノ争ヲ致、遂ニハ公裁ヲ煩候儀しばしば有之、実ニ不相済事ニ候。依而爾後右体之七夕祭執行不相成候、此旨毎戸無洩心得違無之様可触示候也。
さて、その年のねぷたは、この布令に遠慮してさすがに沈黙したようである。『葛西次郎兵衛日記』には、「此月七夕祭停止ニ相成リ何方ヨリモねぷた不出、盆踊は是迄の通。其外椛火杯も已前の通」(明治六年七月)とあるが、年中行事の伝統はそのまま消滅するはずはなかった。一年置いた八年七月の同日記に、「此年、弘前所々士族並町家ヨリねぷた大分出候よし」とあって、またまた復興し始めた状況がうかがわれる。
右の日記によれば、盆踊りについては制限が及ばなかったようであるが、まもなく八年八月に県布達が出て、盆踊りの厳禁が令せられた。それによれば、「盆踊は淫風に流れ、風俗を紊し、教化の妨害となるのみならず甚醜態なり。御維新の世、而も太陽暦施行の上は、このような弊風に泥着するは謂われなき事である」というのがその禁止の理由であった(資料近・現代1No.二二九)。しかし、これもまた数年ならずして復興したとみえ、十五年八月には、盆踊りは路傍に開設すべからずという布達になって表れている。
冠婚葬祭の簡素化も当然取り上げられた。七年三月八日付で次のようなことが布告として出ている。婚姻の際は土産金や支度の多少を論じたり、数日も酒宴を催して失費のために困窮に陥る者がある。今後は貧富ともに質素を旨とせよ。また、葬送にも虚飾を省き、剪綵花(きりばな)も二台以上は用いないこと、法事も無用の失費をせぬように旧慣を改むべし、というのであった。これもまた、一片の通達で容易に改まるべきものでなかったことは言うまでもない。
また、「梓巫市子憑祈禱狐下等厳禁之儀ノ布告」というのが、六年一月三十一日に出ている。梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)はともにいわゆるイタコのことであり、狐や下等(げどう)(つきもの)をつけたり祈禱したりするのは、すべて人々を惑わす所業であるから一切を禁止せよという教部省からの通達であるから、もし改めぬ者あらば厳重に処置を申し付ける、という趣旨であった。しかし、久しく人の心を支配してきたこれら民間の俗信も、それだけでは根絶を期することはできない。やむなく、十四年四月からイタコや座頭の頭役(報恩寺)を定め、お役金四円也を上納させて、その職能を認めるという妥協に落ち着いてしまった。