師範学校と分校の設立

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明治八年(一八七五)九月、文部省八等出仕・加納久宜大視学が本県教育を視察したことは前述したが、その際大視学は本県当局者に教員養成の急務なることを話し、師範学校設立を極力勧めた。県は早急に応じ、九年五月東京外国語学校教諭藤田利勝を師範学校長兼教諭に雇い、青森新町にある旧藩倉廩(そうりん)四棟のうち一棟を校舎に充てた。同年九月、山田秀典県令着任と同時に師範学校設置は早められ、「小学師範学校本校ヲ青森ニ、分校ヲ弘前ニ設置シ本校ハ十一月十一日ヨリ分校ハ同月十日ヨリ召募開業」することになった。入学試験の結果、青森本校は本科公費生二四人、予科公費生二四人、予科私費生八人の計五六人、弘前分校は予科生三四人、総計九〇人の入学をみた。
 弘前分校の校舎は亀甲町旧藩倉廩(現「津軽藩ねぷた村」付近)を仮校舎に充て、専任教師は三人であった。予科の学科目は物理、地理、史学、算術、文法、本邦語学、化学、修身学、作文、商工農大意、養生法、経済大意の一二科である。『青森県師範学校沿革略史』を見ると、十年六月「弘前分校ニ附属小学校ヲ設ク」と記されているが、学校の位置、学年編成など一切不明である。おそらく師範学校弘前分校は、隣接する亀甲小学附属小学校とする契約を結んだものであろう。さらに、弘前分校は、十三年に至って校舎を下白銀町の東奥義塾校地内の西側に移転したが、十七年(一八八四)十一月に廃止され、生徒は本校に移された。

写真58 弘前師範分校修業証書
(明治17年7月)