八戸の蒔田長蔵・関春茂・源晟(あきら)らは、九月十四日、「該報は知事の与り知らざる所と、また言ふ一時の言のみと、其れ然り豈其れ然らんや、東津軽郡某集会議席に於て、此の如き野蛮地には云々と言ひしは衆人の皆知る所なり、又昨年本郡巡回中此地盲昧の民なれば神仏に迷はされ云々(八戸に接したる役場にて)と言ひしは現に長蔵等の耳にする所なり、其無神経と言ふと何の異なるあるか」と言葉鋭く鍋島知事に辞職勧告を突き付けた。
事件は東京の諸新聞でも大々的に報じられた。当時、最も故郷のこの事件の行く末を案じていたのは、事件発生四ヵ月前の三月十六日内閣官報局編輯課長を退職し、四月に新聞『東京電報』社長となった陸羯南であった。羯南は八月十八日の社説で説く。「夫れ地方自治の制度将に実施せられんとし、憲法制定の日も亦近からんとする今日に当り、地方官が仮令(たと)ひ一時の誤謬にせよ、其県下の人民を無神経視して憚らず、之が監督の責任のある官衙に於ても亦之を不問に措くが如きは、大体上甚だ憂ふべき事にして、施政上苟(いやしく)も此傾きあるや実に由々敷き大事なり」と問題視する。しかし、県下の有志者には、五〇万県民が無神経なるか有神経なるかは分かりきったことだから、軽挙暴発をしないように希望した。
写真65 『東京電報』
(明治21年8月18日付)
しかし、事はエスカレートし、九月五日の中津軽郡役所吏員大量辞職をはじめとして、数郡の郡村吏の抗議辞職があり、ために地域は「無政府」の騒ぎとなった。この事態について羯南は九月二十二日の社説で厳しく批判した。「吾輩は敢て青森県の辞表を出したる郡・村吏諸氏に告ぐ、諸氏は県知事の臣僚なるか、将(は)た県民の傭吏なるか、更らに凱切(がいせつ)に之を言へば、諸氏は県知事の嚢中より其俸給を受くるか、将た県民の税金より其俸給を受くるか、諸氏の職掌ハ、県知事の家事を執るに在るか、将た県民の公務を司るに在るか、此問題を考察して軽重を判するときハ、諸氏辞職の当否自ら明ならむ」と叱責し、その上、「県の有志者及人民諸氏に告ぐ」として、「無神経」のことは名誉に大関係あるが、むしろ「無政府」こそ諸氏に直接関係ありとし、語を強めて「諸氏何ぞ其鋭鋒を分ちて、彼の濫に其職を棄て、諸氏に直接の不便を与ふる所の郡・村吏を攻撃せざる」とまで書いた。このことはのちのちまで故郷弘前と陸羯南の間を隔てる一原因ともなった。