無神経事件のその後

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無神経事件は、この後、十月半ばに開かれたリンゴ品評会会長に鍋島知事を戴くかのトラブルや、森有禮文部大臣が来弘の際、他では教育に関することならだれとでも会見したのに、一切人との面会なく、もちろん東奥義塾視察を行わなかったこと等が話題となって終わった。しかし、民意は明治二十三年の第一回総選挙での大同派完勝の形で示された。
 なお、青森県においては、津軽と南部の地域対抗意識が強く残って、県政や国政にまで障害となっていたが、この無神経事件で同じ感情をもって同一行動をしたことは、青森県民の政治意識形成に大きな役割を果たした。