日清戦争と小学校

410 ~ 411 / 689ページ
明治二十七年(一八九四)八月一日、日本は清国(中国)に対し宣戦布告し、開戦詔勅が公布された。弘前市内各小学校はこの日から夏休みに入っていたが、各校とも児童に出校を命じて詔勅の奉読式を行った。
 夏休みの明けた八月末から九月にかけて、市内各小学校は戦争従軍者を慰問するため、職員児童一同が陸海軍恤兵(じゅっぺい)部へ金五円を献納した。しかし、一般に学校現場は戦争に対する緊張感もなく、のんびりした空気だった。
 戦争が学校に与えた影響といえば、体育が急に大きく採り上げられたことである。二十七年九月文部省は訓令第六号「体育及衛生ニ関スル訓令」を発して体育の重要性を強調しているが、これは日清戦争を意識して出された訓令であることは言うまでもない。訓令は九ヵ条にわたっているが、取りようによっては、学校は学習を軽んじてもよいから体育を盛んにして、丈夫で勇ましい子供を作れ、と解釈できる指示をしている。
 だが、このような訓令が出されたものの、小学校現場には戦時色は見られず、強いて挙げれば、清国から捕獲した武器弾丸の類を展示した会場に児童を引率して見学したぐらいである。
 小学校に軍人崇拝や軍国主義的色彩が入り込むのは、戦時中より勝利を得た戦争後のことである。戦勝が軍人を時代の花形にし、軍人は子どもたちのあこがれの的になり、戦利品が県内各小学校に分配されたことなどが、子どもたちに戦争謳歌の気風を巻き起こした。ちなみに朝陽小学校に配付された戦利品は、清国兵小銃一、銃剣一、六斤山砲榴弾二、前垂(まえだれ)一、胴着一、弾薬帯一であり、多少の違いはあるが市内各校にも行きわたっていた。これら戦利品を目のあたりにし、手に取ってみて、小学生たちは生々しい思いで戦争を実感したに違いない。このようにして、小学校にはムードとして軍国主義が入り込み、子どもたちは無意識のうちに戦争を謳歌し、軍国主義の影響を受けていくのである。その一例として日清戦争後、小学校に流行した軍歌を挙げよう。「勇敢なる水兵」「豊嶋の戦」「玄武門」「威海衛」「我軍連戦連勝」「喇叭(らっぱ)卒」「進め矢玉」「陸戦」「進撃」、以上の軍歌はほとんど日清戦争の勝利のあと一、二年間に生まれた軍歌で、小学校では教材として子どもたちに歌わせた。子どもたちが戦争を賛美するのも当然だったろう。