第一尋常中学校では、校友会活動が活発に行われる一方、綱紀という面からみればその乱れには甚だしいものがあった。欠席や遅刻はもちろん、服装は乱れ、いわゆる「バンカラ」と称して腕力を振るうことをむしろ美風とし、教師を揶揄(やゆ)したり授業をサボったりするなど、およそ生徒らしからぬ振る舞いが多かった。教師もまたそうした生徒に迎合するようなところもあったのであろうか、視察した文部省視学官は、あまりのひどさに驚いて、これを本省に報告したというから、その実情は推して知るべしである。
このような生徒たちの行動は、県内の最高学府に学んでいるというエリート意識と、津軽地方の独特の気風がもたらしたものと思われるが、ただ、こうした綱紀の弛緩は、本県ばかりでなく全国的な傾向でもあったようである。
文部省は慌てて綱紀粛正のため訓令を出した。「一、師ヲ尊ヒ長ヲ敬フハ徳育ノ一大要義ニシテ」に始まり、「教員又ハ校長ノ戒諭ニ従ハサル者アルトキハ重情重キ者ヲ一週間以上一学年以内ノ停学又ハ放校ニ処スヘシ」と厳罰主義をもって臨むことを明らかにしている。
しかし、訓令によっても尋常中学校の乱脈ぶりは変わらなかったので、文部省は明治三十年一月、第五代校長に秋山恒太郎を着任させた。秋山校長は、時間の励行から着手し、みずから範を垂れて指導した。『鏡ヶ丘80年史』は「三十年三月の試験では、落第生の数は未曾有の量にのぼった。一年生二三五名中七四名、二年生九三名中一三名、三年生六九名中一三名が落第した。原級を併わせるとさらにその数が増し、一年生の如きは進級できないものが全体の三四%にも及んだ。教員の方では、及落会議の結果で半数ぐらいは救済されることを期待していたのに、校長はさっさと該当者全員の落第を宣言してしまった。翌年はさらにこれを上廻った落第生を出した。」と述べている。
これを契機として、校風が一変し、教員も生徒も面目を改めて勉強するようになった。秋山校長は長岡藩の人で、東京師範学校長、宮城県学務部長兼中学校長などを歴任しており、厳格な「落第旋風」に見舞われた生徒も少なくなかったことがうかがえる。
しかし、校風刷新はなされたが、まだ「粗野蕃風」の気風から抜け切っていなかった。そこへ登場したのが、第七代校長和久正辰である。和久校長は几帳面な性格で、「勤勉と守規(学校規則の遵守)」を学校経営の二本柱として事に当たったという。校長自身「学校の形勢最も多事にして、生徒の処分ほとんど虚日なく、(中略)放校停学また少なからず。恐らくは空前特著の一大変象を呈したるものならん」と回顧しているほどである。
しかし、和久校長は、規則一点張りの厳罰主義の教育者ではなかった。明治四十三年卒業の高木直衛は、校長について「私は四年間に修身の授業から何一つ感銘らしいものを受けた覚えはありませんでした。しかるに五年生になって、当時の和久正辰先生の修身の講義を聞いて、始めてはっと目が覚めたものです。(中略)和久校長は朝の出勤が非常に早く若党町のはずれの寓居からテクテクやって来て、校長室に座りこみ、先生方に遅刻するものがあれば、遠慮なく遅刻のハンコをおしたものだそうです。」と述べている。ただ単に厳格なだけでなく、生徒にも尊敬されていたことがわかる。時あたかも日露戦争の混迷の時代でもあった。