洋服といえば、軍人、役人、教員、学生などの専有物であったが、活動的であり、しかもハイカラな点から次第に一般化しつつあった。明治三十九年には弘前銀行で行員の服装を洋服にしたほどであった。その頃のサックコート(背広)は一重ボタンで襟を小さくし、肩を広く見せるのが流行した。モーニングコートは鴬茶や錆茶などの色物が流行であった。四十年ごろの洋服店では、本町の行方長次郎、土手町の野元慶助、親方町の兜森喜代松、一番町の小寺勇太郎などが知られていた。
洋品類にもいろいろ新型が現れた。夏シャツは男女とも色物の縞であったのが、三十五年からは白の半袖が主になった。上等品は毛メリヤス、普通はガス糸の薄地や木綿ちぢみであった。そのほか、「洋服下の縞シャーツ」というから、今のワイシャツであるが、青色の滝縞格子柄が普通で、このころ友襟がすたれて白襟が流行し始めた。
帽子では、まず山高帽子だが、当時の最新流行は中(ちゅう)山高帽子で、山の高さ四インチ、つば二インチ二分、三円から六、七円まであり、「洋服に中山高帽子」がハイカラの典型と言われた。夏帽子は麦わら帽子で、山が高く、山の四分の一ほどの幅のリボンがつき、つばは思い切り狭いのが流行した。三十七年に土手町蓬莱橋そばの内海商店で新発売した経木(きょうぎ)製の夏帽子があった。一個七、八銭から十二、三銭で、安くて丈夫だといって学生たちに人気があった。
靴は、三十六年から茶皮がすたれて黒に返った。型は爪先が光らず、踵が小さかった。自転車の流行につれて、浅い半靴(短靴のこと)の、横帯でボタンがけにしたのが現れたが、この靴では靴下の選択に意を用いなければならぬことも警告されている。