東洋宣教会ホーリネス教会

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十一月、中田は「東洋宣教会」の名称を公式名とした。そして三十九年中国を訪れ、さらに世界一周の旅に出た。旅行中も中田は妥協を拒否し、聖潔の伝道者の大禁物は軟化であるとしてヨーロッパの聖職者を批判した。明治四十年七月二十六日帰国したが、留守中にメソジスト三派が合同して日本メソジスト教会となり、本多庸一が初代監督となっていた。四十年四月には万国基督教青年大会が開かれ、救世軍のブース大将も来日した。ブース大将は明治天皇にも制服のまま謁見し、大隈重信の頭上に手を置いて祈った。五月には東洋宣教会は京城(ソウル)に伝道館を造った。明治四十四年四月福音伝道館は創立満十周年の記念日を迎えたが、中田はその一ヵ月前に妻かつ子を失った。神癒は聞き入れられなかった。
 そして四十四年十月、中田はカウマンらの東洋宣教会から分離、日本聖教団淀橋教会を結成した。各地の福音伝道館はやがて日本聖教団に加盟する約束で、東洋宣教会は福音未伝地の開拓に力を注ぐことになった。この分裂に対して多くは中立ないし日和見的態度で、中田は苦しい立場になった。
 翌四十五年三月二十六日、中田の恩師本多庸一が長崎で死去した。本多は中田よりもさらに襟度(きんど)大にして、よく多くの人を容れ、寛仁にして長者の風があった。容易に他に譲らざる中田であったが、この本多に対しては頭が上がらなかった。四月十二日夜、青山学院で本多の追悼会が行われたが、中田の追憶の辞は、中田が最初に渡米するとき、オーバーがなくて寒さに顫(ふる)えていたのを、見送りにきた本多が自分の唯一のオーバーを脱いで中田に与えたという思い出であった。
 東洋宣教会は、日本の教会の働きは主として中田に委ね、朝鮮その他東洋諸国に進出した。カウマンは会の総理、中田は一般伝道部長、笹尾鉄三郎が聖書学院長だった。会の信仰の特色は救いと聖潔(きよめ)とキリストの再臨と神癒である。新たな徽章は円形で、真中に鳩が橄欖(かんらん)の若葉をくわえたところを空色の地に白く描き、その周りに「イエス・キリストの血すべての罪より我等を潔む、東洋宣教会」と書いた。
 そして、大正六年新年号から『焔の舌』が『聖潔の友』と改題され、十月二十五日から東洋宣教大会が聖書学院で開かれ、二十七日には中田の就職二五年の祝賀会が催された。中田の二五年間の活動を伝える記念展も開かれた。そして三十一日新教会の任命式があり、東洋宣教会ホーリネス教会が誕生した。
 宣言書は次のようにいう。
 「我等先きに日本基督教界伝道事業の微々として振るわざるを慨き、明治三十四年初めて東洋宣教会を設立し、十字架の救、聖書の全き潔め、神癒、主イエス千年期前再臨の所謂四重の福音を標榜して専ら伝道事業に従事せし事は満天下の夙に認知せられたる事と信ず。
 爾来、支部を設くる事四十六、会員の数二千人に達し、従来の単純なる伝道組織にては、今日の会員をだに指導する事の困難を感ずるに至れり。即ち組織を変更して、監督制度のホーリネス教会とせり(下略)」
 ホーリネスとは英語で聖潔(きよめ)という語である。聖潔という漢語は語呂が悪いため、ホーリネスを通り名とした。中田はホーリネス教会の監督となった。弘前にもホーリネス教会ができた。