昭和三十三年(一九五八)五月七日朝、宿なし流浪の禅僧と言われた千崎如幻(せんざきにょげん)は、アメリカのロサンゼルスでだれにも知られず、ひっそりと八十二歳の生涯を閉じた。灰はケシの花畑の肥料とせよという遺言だったので、郊外のシャスター山上からカリフォルニアの大地に撒かれた。エバグリーン墓地に建てられた「如幻塔」の裏には、頭書の意の英文と「汝等諸人頭上に頭を安(お)くなかれ唯須く脚下を照顧せよ」との漢文の遺偈(いげ)が刻まれている。
千崎如幻については、藤本光城の『海を渡った禅僧』や島野栄道の『心に東西なし』で具体的な活動を知り得るが、しかし、ある宗教雑誌に「アメリカ禅事情」という題で論文を寄せた大学教授は「千崎如幻は朝露庵と号し、移民の中にあって教団に属さず独り居士(こじ)禅の立場を貫いた一匹狼。母は日本人、父は不明。極北の地で行きずりの日本僧に拾われた時、彼は母の冷たい屍の傍らにうずくまっていたという。以後長じて真言、曹洞を学び、鎌倉円覚寺の釈宗演と文通した」と書き、在米二五年というジャーナリストは「日系畸人伝(にっけいきじんでん)」に彼を入れ、捨て子だから両親不明とし、父は中国人だったとかロシア人とかの説を伝える。如幻自身もロシアのカムチャツカで生まれた捨て子だったと言った。しかし、事実は次のとおりである。
千崎如幻は、北津軽郡鶴田町生まれの工藤平次郎という、大工と仏師を兼ねた細工師の子である。平次郎は明治初年市浦村十三(現五所川原市)に仕事に行き、そのまま村の宿屋の婿となった。平次郎二十四歳の明治九年十月五日長男愛蔵が生まれた。後の如幻である。しかし、四年後妻が病死し、平次郎は愛蔵を置いて仕事の多い深浦へ出た。祖母は同じ十三村の浄土宗湊迎寺の二四世工藤定巖和尚のもとへ愛蔵を引き取ってもらった。和尚は平次郎の叔父という。平次郎は深浦で千崎家の養子となり、一家を構えた。そこで愛蔵は湊迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を深浦の曹洞宗宝泉寺に預けた。そこで愛蔵は再び十三の湊迎寺に戻った。この間の幼子の悲しみと怒りが、事実とは違うが、如幻捨て子説をみずからも唱える真実だろう。平次郎はこのときに自分のとった処置を後に大いに後悔したという。しかし、如幻はアメリカから父のもとへよく手紙を書いてよこした。
如幻は村の小学校を終えた後、親類を頼って弘前へ出て高等小学校、東奥義塾へと進んだが、定巖和尚の死によって中退した。彼は五歳で四書五経に接し、十八歳で大蔵経を読破した。そして宝泉寺の佐藤良禅和尚のもとで得度し、得度の翌年の明治二十八年四月八日釈尊の誕生日に如幻と改名した。そして鎌倉に出て臨済宗円覚寺釈宗演の下で修行を積んだ。しかし、祖母の死によって帰郷し、宝泉寺で福田会(ふくでんかい)を組織し、貧しい家の子や子守らを集めて読み書き算や説話和讚などを教えた。四六人の生徒で托鉢や私財では資金が足りず、釈宗演との縁や、参加していた日本矯風会の禁酒禁煙運動の名士・名流夫人らに援助を仰いだ。この教育の場は仏苗(ぶつみょう)学園になり、弘前市土手町にも開いた。学園は五年続いた。後年、如幻を慕って渡米し、経済的に援助した弘前市の写真家宮本保作や十三村長加福善蔵などは深浦仏苗学園の教え子、弘前では海軍軍人の成田喜代治や禅画の佐藤禅忠が教え子である。