探検時代

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翌二十五年六月、一週間分の干飯(ほしいい)、特別の草鞋(わらじ)を持って脱走人のごとく弘前を出て、函館から軍艦磐城(ばんじょう)に乗り、千島探検を行った。費用は自費で、調査項目は陸羯南が教示した。翌年の郡司(ぐんじ)大尉一行のセンセーショナルな隅田川出艇とは別世界だった。この探検の見聞に千島列島の拓殖と警備、十三ヶ条の提案を掲げ、『千島探験』一巻にまとめ要人に献呈した。井上毅の推挙で明治天皇の乙夜(いつや)の覧にも供された。
 翌年四月、井上内相からさらに琉球の調査を打診された。北国育ちで、五十歳になっていたため多少逡巡して、旧知の品川弥二郎佐々木高行に相談した。最後に以前から指導を仰いでいた金原明善の言で決行を決めた。かくして一旦弘前に帰り、五月十日東京へ出発した。この行について弘前ではさまざまの世評があったが、ばかと呼ばれても構わないと言った。しかし、準備は綿密に立てた。医は伊東重や現地の医師、その他沖縄県の奈良原知事ら県官、農商務省役人、学者は田代安定、そして羯南に再び教示を受けた。
 明治二十六年五月二十日、新橋を発し、汽車、汽船を乗り継いで六月一日那覇(なは)に上陸、「言語通ぜず、唯何貫何百文クレロノ語僅カニ聴取ルヲ得ルノミ」の状況から不滅の南島探検が始まった。笹森は南西諸島を隈なく歩き、内政、軍事、資源を調査し、先島(さきしま)諸島の人頭税など封建時代と変わらぬ秕政(ひせい)を怒り、下層民の惨状を告発した。この旅行は、九月十八日の那覇出航、次いで与論島(よろんとう)から奄美(あまみ)諸島の巡航、とくに奄美大島で島民と商人の対立を観察、また、行政の川部(かわべ)七島の扱いも「七島ノ人民亦タ陛下ノ赤子ニ非ズヤ」と、昔九〇〇〇人の人口が九〇〇人になった現状を怒り、十月十七日の名瀬(なぜ)港抜錨(ばつびょう)で終わる。弘前への帰宅は十一月八日午後十時。この沖縄行は翌二十七年五月『南島探験』として上梓(じょうし)された。今日、沖縄を中心に南西諸島を研究する南島学があり、そこでのバイブル的な存在が『南島探験』である。笹森の提案で政府の沖縄政策も大きく変わった。

写真137 沖縄諸島探険に旅装を整えた笹森儀助とその著『南島探験

 笹森儀助は、明治二十七年九月、第五代大島島司(とうじ)に任命され、在任四年間、糖業改良と島民の負債償却に力を尽くした。今日なお、大島では、初代の新納(にいろ)島司とともに笹森は尊敬されている。