普選運動の激化

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大正九年初め、普選運動は激化し、全国三府三一県において一四四回の集会・デモが行われた。これら大衆行動を組織したのは労働組合と市民政社であり、やがて全国六八団体による全国普選連合会が成立、憲政会代議士が中心になった。原敬は、普選即行は社会組織に打撃を与えるとして衆議院を解散した。九年五月の総選挙における政友会の圧勝と、アナルコ・サンジカリスム(無政府主義的急進的労働組合主義)の労働界への浸透によって普選運動は一時沈滞した。
 しかし、原敬の死とワシントン会議の成功により、大正十一年初め再び革新気運が盛り上がり、第四五議会で初めて野党の統一普選案が出された。主要全国紙九新聞社も普選要求共同宣言を発した。運動は農村にも広がった。政友会は依然普選に反対した。関東大震災下に成立した第二次山本権兵衛内閣は普選採用を声明したが、十二月二十七日虎の門事件で辞職、後任の清浦内閣が貴族院の内閣だったため第二次護憲運動が起き、憲政会革新倶楽部・分裂後の政友会が護憲三派を組んで普選を主要な旗印とした。十三年五月の総選挙で護憲三派は圧勝し、十四年の第五〇議会で、加藤高明内閣は、二十五歳以上の男子を有権者とする普選法案を治安維持法と抱き合わせる形で成立させた。法案は五月五日公布された。有権者は三二九万人から一二四一万人へと約四倍増となった。