農民組合の結成

562 ~ 563 / 689ページ
大正年間は、中津軽・南津軽の二郡は稲作の先進地で、その上りんご兼業地帯として農業近代化が進む。しかし、西・北二郡は生産力が低く、特に西郡は低湿地が多く、冷害・旱水害に最も弱かった地帯なので、後れた社会構造を温存し、刈分小作も残っていた。しかし、河川改修が行われるにしたがって未開拓地が投資の場となり、やがて商人地主が田地を集積することになる。西郡では、明治三十八年から昭和十年までの三〇年間に自作地は半減(二〇〇〇町歩減)し、小作地が三五〇〇町歩も増加した。県下の米価は、大正八年石当たり四四円が、十年には二八円と下がって、農家に大打撃を与えた。五五%が最低と言われるエンゲル係数が、普通農家でも大正十三年には六〇%だった。しかも高利貸金融の利息は全国最高だった。
 大正五年、岐阜・愛知・愛媛の三県で小作争議が起き、翌六年は一七府県八五件、七年には二四府県二五六件に及んだ。九年には四〇八件で、争議のなかった県は宮城・岩手・青森・山形・秋田・沖縄・茨城の七県にすぎなかった。十一年になると、兵庫は一県だけで三三五件にも上り、争議の起らないのは青森と沖縄だけとなった。
 大正十一年(一九二二)四月には、日本農民組合賀川豊彦・杉山元治郎らを中心として組織された。その宣言や綱領は「われわれはあくまで暴力を否定する」「われわれ農民は互助と友愛の精神をもって解放の途上に立つ」「穏健着実、合理的な方法をもって共同の理想に到達することを期する」というものだった。
 一方、これとは別の体系をとって日本農民組合関東同盟(日農)が十一月創立された。中心になったのは労働総同盟新人会建設者同盟で、和田巖も有力メンバーで、浅沼稲次郎川俣清音らは青森県と深く関係した。
 日農は順調に発展していたが、大正十五年三月の第五回大会で、運動方針をめぐって左右両派が対立、右派の平野力三らが脱退、新たに全日本農民組合同盟を結成した。日農は綱領を改め、創立当時に比べれば著しく尖鋭化した。