大正期には、会社の設立が増加した。大正十四年版『弘前市商工案内』によれば、銀行を除いた会社数は三八社である。このうち、明治期の設立になる会社は九社であり、他の二九社(七六・三%)は大正期の設立である。これに対して銀行は、大正十四年時点で一二行あり、このうちの八行が明治期の設立で、四行が大正期の設立である。
銀行を含め、会社の経営者には同一人物が重複して関与する事例が多い。宮川久一郎は弘前商業銀行、宮川銀行の頭取を務め、宮川呉服店、弘前無尽株式会社、大黒倉庫株式会社の社長を兼務するほか、第五十九銀行、角弘銅鉄店、桝五関商店の取締役となっている。関利三郎や宮川忠助も複数の会社の社長や役員になっている。このように、新たな弘前の財界の有力者が形成されてきた。
宮川久一郎が社長であった宮川呉服店は、は(かくは)の屋号で知られ、呉服太物のほか、貴金属時計、小間物、化粧品ほか多くの商品を取り扱い、食堂も併設して多くの顧客を集め、弘前の商店街の代表的な百貨店となった。