県内における
無尽会社は
大正十三年(一九二四)の段階で表58のように五社が営業していたが、
弘前無尽株式会社は黒石出身の
唐牛敏世により、最もおくれた
大正十三年に設立された。
『弘前相互銀行五十年志』弘前相互銀行、昭和49年より作成 |
大正十二年三月、唐牛は
無尽会社設立のため、県庁に設立認可申請書を提出するが、当初、担当者から県内には設立認可予定の
津軽無尽会社を含め、四社が営業することとなるため、これ以上の出願は認められないと申請を拒否されてしまう。これは
無尽会社の新設に関し、大蔵省の「濫設を防止して庶民階級の与信に過誤なきを期せしむる」との方針に従い、県庁が
無尽会社の新設に難色を示したた
めであった。しかし、大蔵省の指導方針には、一道府県内にあっては、人口百万未満の場合五業者、人口百万以上の場合は人口二十万を増やすごとに一業者を認めるという内容もあり、唐牛は
青森県にはもう一社設立の余地が残されていると主張し、設立認可に奔走した。折しも同年九月一日に
関東大震災が起こり、大蔵省の建物は灰燼(じん)と化し、申請書も焼失する不運に見舞われるが、書類を再作成し、
大正十三年三月十七日、設立の内認可を得ることができた。そして、弘前
無尽会社は同年六月二十四日、設立登記を完了して発足するのである(『弘前相互
銀行五十年志』弘前相互
銀行、一九七四年)。
写真168 創立当時の弘前無尽会社