高等学校誘致運動の展開

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明治二十七年(一八九四)に制定された高等学校令により、明治四十一年までに全国には八校の高等学校が設置され、いずれも大学の予備段階という性格づけがなされた。これらの学校は、その校名に一から八までの数字を冠するいわゆるナンバースクールといわれるもので、第一高等学校(東京)、第二高等学校(仙台)、第三高等学校(京都)、第四高等学校(金沢)、第五高等学校(熊本)、第六高等学校(岡山)、第七高等学校(鹿児島)、第八高等学校(名古屋)があった。その後、臨時教育会議において高等学校の増設が検討されるなかで、大正六年(一九一七)九月十九日付で、長尾義連市長ならびに丸瀬正果市会議長の連名で寺内正毅内閣総理大臣や後藤新平内務大臣らに対し、高等学校を弘前市に設置するよう請願がなされた。翌年には臨時教育会議の答申を受けて第二次の高等学校令が制定され、従来のナンバースクールに加えて地名などを冠する高等学校の増設が図られるようになった。
 弘前市においても高等学校誘致運動がいっそう盛んになり、同年七月には石郷岡文吉市長から市会に提出された高等学校設置に要する費用の県への寄附に関する議案が可決され、さらに、新設の一校が青森県に予定されることを受けて、大正八年には市長から文部大臣宛に弘前市への設置を陳情する意見書が提出されるなどの動きが見られた。高等学校の設置位置に関しては青森市も名乗りを上げ、弘前市と激しい誘致合戦を続けたが、大正八年一月二十六日に弘前市に決定されるに及んで、終止符が打たれた。