満州事変の目的が満州国の育成にあったことはいうまでもない。そのため満州国への移民政策は国策として積極的に推進された。満州移民は不況下にあった日本の人口問題や食糧対策の一環であり、全国的にその督促が叫ばれていた。とくに凶作にあえぐ東北地方では、人口調整の意味からも積極的な移民政策が講じられていた。距離的にも青森県や東北地方は満州国に近く、その意味で移民政策は大変重要視された。
昭和七年(一九三二)八月、拓務省は軍部の協力のもとに、在郷軍人約五〇〇人を募集し、九月十日から内地で約三週間基礎教育を行い、十月四日から満州へ向けて移民を実施する計画を立て、経費を臨時議会に要求した。帝国在郷軍人会本部は地方庁と協力して移民を選出するのだが、対象は茨城、栃木、群馬、長野、新潟、福島、宮城、岩手、秋田、山形、青森の一一県とされた。募集地には第二・第八・第一四師団があり、東北各師団の管区に一致していた。
移民対策に当たっては現に満蒙に出動している部隊の管区から募ることが便宜的とされていた。その理由を在郷軍人会では「出動部隊と移民との間に精神上一種の親密なる脈絡があって、警備・連絡其他の種々の点に於て好都合なるのみならず、現在出動せる部隊の除隊兵を其儘満蒙に居着かす為にも便宜である」としていた。しかしそれ以上に重要なことは「農漁山村の疲弊は、全国に亙って居るが、本土に於ては東北地方が最も苦しい様である。故に某地方から募集するとすれば、先づ東北地方を選ぶのが適当である」という理由が挙げられたことだろう。「昭和六年大凶作」で多大な被害を受けた北海道・東北地方、殊に北海道と青森県は決定的な打撃を受けていた。その意味でこの移民政策は、東北救済の意味合いを強くもっていたのである。また「第一回の移民であるから、万全を期する為め、成るべく気候風土の似寄った地方を選んだ」との理由も、今回の移民募集が極めて政治的配慮に基づいたものであったことが理解できよう(資料近・現代2No.七七参照)。