昭和初期の相次ぐ凶作に対し、政府は救農対策として農村工業振興策を講じるが、その一環として、昭和十二年(一九三七)七月、弘前駅前に青森県販購利連合会りんご加工場が設立された。工場開設に際し、工場長には西舘建敏が就任し、技術者として北海道大学農学部から望月武雄を迎え、また、かつて竹舘林檎組合石川工場でりんご加工業に携わった佐藤弥作、田中竹男を採用した。そして、工場は十一月から操業に入り、りんご液、乾燥りんご、りんごジャム、シロップ、りんご酒などを製造した。その中で、りんご酒は「チャコリ」(スペイン語で南欧地方に産する野生りんごの汁液のこと。腰掛にかけ、これを一杯飲みながら活発に議論を行うと、幸運をつかむとのいわれがある)という商品名で好評を得た(資料近・現代2No.一七九)。
戦時統制期に入り、酒類は醸造制限を受けたため、日本酒の代用としてりんご酒の需要はますます高まり、りんご酒ブームが到来する。しかし、戦時体制に入り、主食である米の増産政策のため、昭和十八年からりんごが減産されると原料不足となり、りんご加工業は縮小されていった。