津軽塗

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弘前市の名産として有名な津軽塗は、四代藩主津軽信政が奨励して以来、代々の藩主によって名産の育成と下級武士の内職として保護助成されてきた。津軽塗製品は明治になると次第に普及し始めるが、その契機となったのが、明治十三年(一八八〇)七月、士族授産の一環として創立された弘前漆器授産会社であった。当時はまだ「津軽塗」という名称ではなく、「韓塗」と呼んでいた。そして、明治十四年二月、弘前漆器授産会社が第二回内国勧業博覧会に津軽漆器を出品する際に「津軽塗」という名称を使ってから称されるようになった。
 津軽塗は明治中期になると、高級品はもとより、一般大衆向けの製品も現れてくる。そして、大正時代に入り、七々子塗が津軽塗の技法に多く取り入れられると、漆器の持つ鈍重さがある程度修正され、東京、北海道へも販売されるようになった。昭和に入り、不況が長びくとぜいたく品的性格を有する津軽塗は多大な打撃を受け、ほとんど廃業状態となった。そこで、津軽塗はこれまでの会席膳等の製作から新規図案による一般大衆向け製品へと切り替えることによって、活路を開こうとした。それには、青森県工業試験場が昭和八年(一九三三)に漆器の実地研究を行うようになり、専門的な漆工研究部門を有することで貢献した。しかし、戦時体制に入るとまたしても津軽塗はぜいたく品的性格ゆえに、業者の大部分が勲章箱製作へと駆り立てられ、津軽塗漆器工業の発展が阻害されるのである。昭和十五年に青森県漆器統制会が設けられてから漆器業は統制下に置かれ、同十七年には技術的保存制度により六名が資格者に指定されたことで、ある程度の技術は受け継がれたが、国民生活に対して津軽塗製品は、最小の生活必需品としてのみ、辛うじて供給されただけだった(弘前市政調査会資料第一集『津軽漆器工業の研究』弘前市、一九五五年)。