三週間の休業を発表したのち、第五十九銀行の復活へ向けた経営努力が開始される。まず、青森支店行員二名が横領した行金の補填であるが、実際の横領金額は約一二〇万円と莫大な額となり、そのうち約一六万円は両名の財産で補填したので、銀行としての損失額は一〇四万円余りとなった。そのうち半額は重役の私財でもって弁済し、あとの半額は損金扱いで処理することにした。次に、預金支払準備金の調達であるが、休業前日の残高はわずか三五〇〇円弱、休業中に貸付から四〇万円を回収し、あとは藤本ビルブローカー銀行東京支店から融資を受け、開業前日まで準備された現金は八八万円であった。さらに、経営陣刷新への取り組みであるが、休業間もない十一月三十日、樺太の泰北銀行に勤務した経験を持っている、油川町(現青森市)出身の西田亮を支配人として迎えることにした。それと同時に、西田の後援者である前朝鮮銀行総裁美濃部俊吉が相談役となり、中央における第五十九銀行の顔役となった。その上、大蔵省からも銀行経営の専門家を招致し、経営管理体制を整備するよう再三にわたって指導されたこともあり、美濃部の推薦で、以前、朝鮮銀行総裁席秘書を務めた大原胤夫と当時同行東京支店長代理であった鹿俣徳四郎を迎えることにした。
これまでの経営者は大地主や事業家がほとんどで、銀行経営の専門家といえず、また、常時銀行業務に就いているわけでもなかった。そのため業務に対する指導監督も十分ではなく、不良債権の累積や不正の発見などが十分にできなかった。これは当時多くの地方銀行に共通する欠陥でもあった。これら①横領事件における損失の補填、②預金支払準備金の調達、③銀行経営陣刷新の取り組みによる専門家の招致などのすばやい対応により、休業で低下していた預金者並びに株主の信用を取り戻すことができた。
さて、十一月二十五日の休業から三週間後、再開業日の十二月十六日となったが、その間に支払準備として調達された現金は前述のとおりわずか八八万円であったため、預金払い戻しの上限を五〇円とせざるを得ず、不安を抱きながらの開業となったが、状況は思いのほか平穏に終始した。年末資金需要も重なり、払い戻しが超過したのはやむをえないが、一方で預け入れもあり、営業再開は一応成功した(前掲『青森銀行史』)。なお、金融危機が勃発した昭和五~六年における県下休業銀行、開店休業銀行の概況は表9のとおりである。