県内銀行合併の推進

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昭和七年(一九三二)末における県下の本店銀行は、表12のとおり、普通銀行一四行、貯蓄銀行二行、合計一六行であった。
表12 県内本店銀行数の推移
(昭和7年末~20年末)
年末普銀貯銀合計摘要
昭和7年14216普銀:第五十九、津軽、弘前商業、弘前、青森、青森商業、八戸、尾上、佐々木、陸奥、板柳、板柳安田、金木、三戸
   貯銀:青森貯蓄、青湾貯蓄
8年14216 
9年14216 
10年14216 
11年14216 
12年14216 
13年11213三戸、金木はそれぞれ第五十九に合併
   弘前解散
14年9211板柳安田は板柳に合併
   陸奥解散
15年8210尾上は第五十九に合併
16年8210 
17年8210 
18年426第五十九、津軽、青森、八戸、板柳は合同して青森を新立
19年224佐々木、弘前商業はそれぞれ青森に合併
20年224普銀:青森、青森商業
    貯銀:青森貯蓄、青湾貯蓄
前掲『青森銀行史』

 前述したように、昭和十一年、馬場蔵相は一県一行主義を掲げて銀行合併政策を展開するが、青森県に対しては、県下の親銀行たる第五十九銀行を通じて合併を勧奨した。合併の勧奨は、同年五月と七月に第五十九銀行の大原専務が大蔵省に出省し、意見聴取を受けてからで、その後、大蔵省と第五十九銀行が中心となって県下各行との折衝が行われたと考えられる。しかし、全銀行の賛同を得られず、当初大蔵省が意図した県下一行主義は挫折した。そこで、今度は第五十九銀行との合併に賛意を表明した銀行による第一次合併を行い、これをステップとして全県統合に進むという案に切り替えることになった。
 十二年、広田内閣の総辞職に伴い、新たに成立した林内閣の結城蔵相は、銀行合併政策を堅持しながらも馬場前蔵相の性急で画一的な進め方から、漸進的、個別的なものに緩和したため、青森県下に対しても無理なく合併が可能と思われるものに限り、引き続き交渉が行われた。合併の経過は次のとおりである。
 十三年、第五十九銀行三戸銀行を買収合併三戸銀行は明治三十一年に設立された銀行だが、同三十八年に取り付けに遭い、経営困難に陥った。その際、第五十九銀行が救済したが、その後、同行は役員や支配人を送るとともに、株式の大半を所有し、三戸銀行を子銀行化した。このように両行は密接な関係にあったため、買収合併はスムーズに進み、十三年五月に合併が実現した(資料近・現代2No.一九八)。第五十九銀行はその直後の同年八月に金木銀行を買収合併金木銀行は明治三十年に設立された銀行だが、時局の進展につれ、農村地帯の小規模銀行は将来の経営が困難になりつつあった。そのため、同行は合併賛成の態度をとらざるをえなくなり、買収合併を受け入れることにしたのである(同前No.一九九)。
 十四年、大蔵省の小銀行に対しては営業期間の更新延長を認めない方針に対して、解散の危機に瀕した板柳安田銀行は最も適当な合併相手である板柳銀行合併した。
 十五年、第五十九銀行尾上銀行を買収合併尾上銀行は明治三十三年に設立された銀行だが、昭和十三年にはすでに大蔵省から第五十九銀行に対して尾上銀行との合併の打診があった。それ以降交渉は中断していたが、十四年に入り大蔵省は正式に合併を勧め、同省の仲介により買収条件について交渉が行われ、同年三月に買収合併が完了した(同前No.二〇〇)。
 昭和六年の県下金融危機に際し休業した弘前銀行は、第四章第二節第五項で述べたように再建がかなわず、十三年九月に解散を余儀なくされた。また、陸奥銀行も休業後、再建の目途がつかず、十四年八月に解散した。昭和七年に一四行あった普通銀行は、十五年の段階で大蔵省の勧奨・指導による合併や解散により八行にまで減少した(表12)。