タクシー事業の進展

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弘前市におけるタクシーの営業の始まりについても定かではないが、昭和二年(一九二七)六月十七日には既存の弘前自動車業組合(和徳町大塚自動車方)という同業組合が改組され、中弘自動車営業組合(組合長富田孫七、事務所中土手町富田方、組合員一七人)へと発展している。当時の弘前市における旅客運輸の状況を昭和六年七月十九日付の『東奥日報』では次のように報じている。
一円タクシーが五十銭タクに値下げして弘前市の乗り物戦線まさに異状を呈し、人力車が市内三十銭でふん張ってもこれに対抗して行くのが困難に見られるようなありさまであるが、五十銭タクの脅威は人力車を越えて弘前乗合自動車にも及ぼし、実際五人五十銭でタクシーに乗れば青バスより心地よいというのでバスの客が減じたので、乗合自動車側ではこれに対抗すべく目下乗車賃割引を行い、片道八銭、往復十五銭として大宣伝しているが、時節柄この割引を永続的なものにして市民の便宜を図ろうという案が出て十七日、自動車会社小山内社長、工藤支配人が弘前署に三上署長を訪ね打ち合わせた。結局八月一日から往復十五銭、片道八銭として実施する模様で、乗車賃値下げと共に車の運転系統を従来の駅中心から離れて駅から茂森町、和徳町から茂森町と縦横に定め、乗換券を発行し、乗換場を二ヵ所ぐらい設定するはずである。