昭和十二年(一九三七)七月七日、北支(北中国)蘆溝橋付近において日本軍と中国軍との間に戦端が開始された。最初これを「北支事変」と称したが、事変は拡大の一途をたどり、戦乱は中国全土を覆った。
七月十九日弘前市主催の市内官公衙(が)及び学校・各種団体長による、北支事変に関する協議会が朝陽小学校において開かれ、その席上、内閣四大臣及び北支派遣軍司令官宛に弘前市民の覚悟を打電、決議ならびに声明書を発表して気勢を上げ、続いて弘前出身の中村良三海軍大将の時局に関する講演を聞いた。
市内各小学校では校長会の決定に基づいて、七月二十七日北支事変に関する講堂訓話を行い、二十八日には鎮守宮に北支派遣皇軍の健勝祈願、国防献金を第八師団に献納した。同日夜、予備兵・補充兵に動員令が発せられ、それら応召兵を収容するため、軍は和徳小学校や第一大成小学校に校庭及び校舎の貸与を申し込み、軍は校舎を使用すること二〇日間に及んで一応返還した。その後も必要あるときはいつでも軍に貸与するよう申し込みがあって、授業に支障が起きるようになった。
同年十一月十四日、各学校に通達があって、軍隊の出征日時は秘密に属することなので、この日から学校日誌などに出征兵士見送りの時間を明記しないこととされた。以後の各学校日誌を見ると、出征兵見送りの記載は「軍隊歓送」の四字で終わっている。