二十年七月二十八日の米軍機による青森大空襲で、官立青森師範学校は跡形もなく焼失した。師範学校は一時上北郡七戸町に本部を移したが、十一月二十六日弘前に移転することになり、市当局はとりあえず時敏国民学校校舎を提供することにした。時敏校では四学年以下の児童を朝陽国民学校に収容、同校と二部授業を行うこととし、五、六学年は市公会堂に、高等科は蔵主町の弘前国民学校(旧弘前高等小学校)に収容して授業を続けた。
また、師範学校の弘前移転に伴い、附属国民学校を必要としたが、弘前市は朝陽国民学校を同校児童とともに、青森師範学校附属国民学校として、文部省に貸与することにした。二十一年四月六日朝陽国民学校は、青森師範学校男子部同女子部附属国民学校として発足したが、ここで由緒ある「朝陽」の名は一時的ではあるが、わが弘前教育界から消える。
青森師範学校附属国民学校となっていた朝陽校舎は、二十二年三月十五日、弘前に移転した青森医学専門学校にさらに譲渡されたため、附属国民学校は本町二丁目の旧校舎(現弘前税務署敷地)に移転した。
一方、師範学校は二十一年八月に時敏国民学校を引き払い、弘前公園三の丸の旧兵器庫跡に移転した。時敏校では校内を整備のうえ十月十日古巣の元寺町校舎に帰り、一年三ヵ月ぶりで分散授業や二部授業は解消した。
なお、二十三年四月、青森師範学校附属小学校は、独立校舎を弘前公園内に設置し、児童を公募して新発足することになった。そこで「朝陽小学校」は満二年ぶりに弘前市立朝陽小学校として旧に復した。