青年学校就学の義務制

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弘前市は、市内六校(朝陽、一大、二大、和徳、時敏、城西)に設置されていた青年訓練所を昭和十年三月三十一日をもって廃止、翌四月一日から公立青年学校として発足させた。それぞれの小学校長はその青年学校の校長事務取扱を兼任した。
 昭和十二年七月の日華事変の勃発を契機に、青年学校職業教育面が後退して、軍事教育的性格を多分に持つようになった。昭和十二年から十四年にかけて、その教授及び訓練要目が逐次改訂され、軍隊予備施設としての青年学校に変わり始めていた。ところが、男子青年の就学率が悪く、約三分の一の者がいずれの学校にも就学しないまま取り残されていた。このことは軍事的見地から重大視され、その対策として青年学校の就学を義務制にすべしという主張が、軍部を中心に起こった。このことからも軍が青年学校を兵士養成の場として見ていたことは明らかである。
 こうして青年学校令は改正され、昭和十四年(一九三九)四月二十六日をもって青年学校は義務制とされた。すなわち所定の学校に在学する者を除いて、年齢満十二歳から満十九歳までの男子は、その保護者においてこれを青年学校に就学させる義務を負わされたのである。