無産政党の結成

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大正十二年十一月、第二次山本内閣の普選実施方針に応じて総同盟は議会活動参加を声明、島中雄三・鈴木茂三郎らの評論家は無産階級の政党を研究するため政治問題研究会を設立した。機関誌は『政治研究』である。
 さらに、翌大正十三年(一九二四)四月、安部磯雄・石川三四郎・秋田雨雀らは日本フェビアン協会を結成、機関誌『社会主義研究』を発行した。
 さらに、日本農民組合は、より包括的な立場から無産政党の樹立に動き、大正十四年十二月一日、わが国最初の無産政党「農民労働党」を設立したが、結社三時間後に治安警察法により結社禁止処分を受けて消滅した。
 そこで、日本農民組合と官業労働総同盟は反共路線を打ち出し、大正十五年三月五日、大阪で労働農民党を結成した。中央執行委員長杉山元治郎、顧問として安部磯雄・賀川豊彦が推された。しかし、十月、右派系の安部・賀川や総同盟が脱退、十二月の大会では大山郁夫が委員長となって容共的立場の政党となった。一方、安部磯雄らは穏健な無産政党を作ろうとし、大正十五年十二月五日社会民衆党を成立させた。中央委員長安部磯雄、書記長片山哲である。このほかに三輪寿壮らの日本労農党、平野力三らの日本農民党も結成された。