争議の顛末

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しかし、法廷闘争は同盟側に不利になっていった。当時の立法理念は自由契約論で、電気事業の公益性の観念は固まっていなかった。昭和六年十月二十二日、青森地裁は電灯料金は契約に基づいており、経済事情に左右されるべきものでない。料金不払いに対して送電拒否するのは当然とした。昭和六年九月十八日満州事変が始まり、弘前の第八師団も大陸に出動、軍事色が濃厚となり、電灯争議を終結させようという気運が出てきた。青森地裁も両者の和解を勧め、七年七月二十四日、会社代理人三上直吉と同盟会代表太田鐵次の間に和解の調印がされた。
 この闘争は、表面上は同盟会の敗北だが、一般市民にアピールする問題を掲げて争議を大衆的に闘ったこと、市民を政治的社会的に啓蒙した点では高く評価された。
 なお、私企業としての電力会社の営利主義が農山漁村の電化を怠るとか、無駄な経営費、高すぎる料金など、合理化を求められる時代にそぐわない企業として県参事会の県営電気企業実施意見となり、三ヵ年の専門調査の上で、昭和八年、多久安信知事の下、青森、弘前、八戸電力会社買収となった。
 弘前電灯株式会社の買収は難航し、県提示額と会社主張額は一五〇万円の差があり、交渉決裂と思われたが、津島文治が仲へ入り、会社へ譲歩の説得に当たった結果、会社がようやく折れ、六六四万六〇〇〇円で決定した。
 仮契約書の調印は、八年八月二十三日、青森県庁において行われた。