乳井市政

284 ~ 284 / 965ページ
乳井市長は、就任早々、市政革新の意味をもって吏員の和服着用廃止と広範囲な人事異動を断行、貧困者救助事務のため学務課に新たに社会係を設置した。さらに市立病院を公立病院として充実させ、公益質屋や授産場を設置して新味を出した。

写真96 第16代市長乳井英夫

 昭和十四年九月に県議選挙が行われたが、戦争下の特殊現象として、半年前の十三年十二月に県下の有権者が一八万二〇〇〇人あったのが十四年七月は一七万七〇〇〇人と減少した。応召や転出が激しかったからである。弘前市は八〇七四人から七九三四人ヘ一四〇人の減、中津軽郡は一万三五四五人から一万三二〇四人と三四一人減った。
 昭和十五年は戦前日本の頂点の年で、国内は紀元二千六百年の歴史に興奮していた。弘前市政も新体制に即応し、市会各派は解体、一致協力の態勢を整え、乳井市長も大政翼賛会弘前支部の首脳となった。そして物資配給納税貯蓄、保健衛生、時局啓蒙などの機能を果たすため、旧来の七部町会制を改正して新しく八〇町会を結成した。しかし、懸案の市営バス問題弘前バス会社と買収価格が折り合わず、その間にガソリン消費規制の国策に沿った弘南バスに弘前バス花岡バスが買収された。この問題は、市当局と市会が熱心なわりには市民は無関心だった。また、目屋鉄道も地元の資金協力がなく頓挫した。