在日朝鮮人問題

315 ~ 316 / 965ページ
戦前から一貫して内地朝鮮人は左翼勢力と同様、官憲にとって視察取締の対象だった。日中戦争以降、太平洋戦争末期にいたって朝鮮人を多数動員してからは、彼らの反発・反動を押さえるために、よりいっそう視察取締体制が強化された。ポツダム宣言受諾を決定した昭和二十年(一九四五)八月十四日、政府と治安当局は朝鮮人の暴動や独立運動を警戒し視察取締を徹底した。とくに当時「朝鮮人集団移入労務者」(強制連行された朝鮮人)に対しては、彼らの反動を恐れて優先的に帰国させる措置を講じた。その一環として出航した浮島丸の爆発・沈没事故(昭和二十年八月二十四日)は悲劇的な事件として、今でも韓国や北朝鮮の人々の心に深い傷を負わせている。だが概して内地朝鮮人の動向は平静であり、むしろ日本人の方が朝鮮人に対して必要以上に警戒し、暴行を加えようとする傾向が強かった。それは全国各地の特高警察による調査報告書でも報告されている。朝鮮人に対する警戒心の強さは、敗戦前まで植民地としていた朝鮮に対する日本人の態度がどのようなものだったかをよく示していよう(詳細は中園前掲論文「敗戦前後の世相と民心の動向」を参照)。
戦争をめぐる朝鮮人の境遇については、記憶しておかなければならないことが多い。敗戦前、朝鮮人は植民地人として冷遇され差別されていた。しかし日本敗戦により、朝鮮は独立国の国民として扱われることになった。日本人が朝鮮人を警戒したのも、立場が突然に逆転することに対するとまどいの表れであった。ところが敗戦後の在日朝鮮人は、もはや日本人ではないとして、軍人恩給や補償の数々を受けられなくなったのである。
戦後の朝鮮問題は米ソを中心とした冷戦体制による国家の分断がもっとも大きかった。当初はアメリカの進める民主化政策を踏襲していた日本も、しだいにアメリカの極東戦略に準じ、冷戦の一端を担う存在として位置づけられた。朝鮮に対しても、日本政府は朝鮮社会主義人民共和国と国交を断絶することになり、在日朝鮮人の帰国を禁じた。そのため在日朝鮮人の間で帰国許可を促進し、待遇改善、差別廃止を訴える運動が起きた。弘前市在住の朝鮮人からも、弘前市議会に陳情書が提出されている。しかしこの陳情は弘前市議会で否決された。国交問題に関わることでもあり、市議会レベルの範疇を遙(はる)かに超えた問題だったからだろう。しかし近代以降、帝国主義日本がとった植民地政策が、戦後も負の遺産を引きずっていたことは、知っておく必要があるだろう。