新警察制度の導入

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敗戦による治安の悪化は、市当局が憂慮していたものの一つであろう。しかし食べることに精いっぱいだった市民にとっては、治安の悪化も何もない。生きるためには多少の危険を冒しても食糧を確保し、生活の場を維持する必要があった。闇市による食糧や諸物資の売買などは、その象徴であろう。
 しかし治安を預かる市当局や警察当局にとっては、治安の確保が市民生活維持のために必要との認識があった。弘前警察署でも敗戦後、初めて迎える年末年始には、特別な警戒態勢をしいている。敗戦後、占領期にかけてもっとも多かった犯罪は、食糧をめぐる盗難、価格統制違反、闇市取引である。食糧をめぐる経済犯が多かったのも、敗戦後の大きな特徴といえよう。
 昭和二十二年(一九四七)九月十六日のマッカーサー指令を受け、十二月十七日、警察法が公布された。同月三十一日、内務省の廃止を受けて、警察制度は大幅な改革を余儀なくされた。翌年の三月七日、GHQは徹底した地方自治制度を導入し、その方針に従って警察制度の大改革を行った。従来の中央集権的な国家警察の組織原理を徹底的に否定し、かわりに自治体警察国家地方警察の二本立ての制度を作ったのである。自治体警察は市と人口五〇〇〇人以上の市街的町村に、市町村長の所轄の下、市町村公安委員会を設置して区域内の治安維持に当たらせるものだった。自治体警察が中央の国家権力から指揮を受けないとされたのは、占領政策の特徴の一つである地方自治強化の現れだった。当然、弘前市にも自治体警察は設置されている。

写真111 弘前市の自治体警察

 しかし自治体警察国家地方警察の二本立ての制度は、警察関係者には不評だった。自治体警察を置かざるを得ない町村自治体にとっては、その経費が膨大に上り、自治体側からも批判の対象となった。そのため昭和二十六年の警察法改正で、大部分の町村が自治体警察を廃止し国家地方警察に移行している。自治体警察を主導したマッカーサーが解任され、民主化を主導したホイットニー民政局長も帰国するなど、GHQ内の人事異動や勢力関係、そして占領政策の転換が大きく影響したからでもある。GHQの占領政策が当初の民主化路線から逆コースをたどり、アメリカの極東戦略上、中国やソ連に対する防衛問題に日本を利用しようとする政策に切り換えられつつあったことは、すでに研究者の間でも定説となっている。
 このような背景もあって、占領期間終了後の昭和二十九年、自治体警察国家地方警察を統合して、都道府県警察が誕生した。都道府県警察は各自治体が経費を負担する点では自治体警察の性格と同じだが、国家公安委員会や警察庁の指揮を受け、警視正以上の人事任免権も国家公安委員会がもつなど、国家地方警察の性格も兼ね備えていた。しかしながら都道府県警察は、管轄区域外に権限を及ぼす場合、相互の協議を要するなど、戦前までの中央集権的な警察制度とは一線を画している。
 警察制度が戦前までと大きく異なっているのはいうまでもないが、市民レベルで実際に警察官を見る場合、最大の変化は婦人警察官が誕生したことであろう。すでに『弘前タイムス』が昭和二十一年六月二十三日付で「婦人警察官懇談会/新採用の方針等説明」と記事を出したように、女性の警察官の誕生は格好のニュースになっていた。新しい時代、新しい社会が来たと思った人々も多かっただろう。

写真112 婦人警察官