(昭和)二十五年には男ばかりの同校に女生徒も入学、画期的な男女共学が実施された。四月八日に入学した生徒たちは、その数四百人、うち女生徒はわずかに十六人。大きな変化であった。質実剛健を校風に明治十七年八月二十日、士族とわずかな平民でスタートした弘高は、ここに男女席を同じくしたのである。
「男女共学と言えば、リンゴの唄や青い山脈を思い出す。終戦の解放感があった生き生きした時代。女生徒は非常に積極的でしたよ」と話すのは弘高五回生の作家・長部日出雄。弘高に新風を吹き込んだ女生徒だが、学校側には必ずしも歓迎の空気があったわけではなかった。
「男女共学と言えば、リンゴの唄や青い山脈を思い出す。終戦の解放感があった生き生きした時代。女生徒は非常に積極的でしたよ」と話すのは弘高五回生の作家・長部日出雄。弘高に新風を吹き込んだ女生徒だが、学校側には必ずしも歓迎の空気があったわけではなかった。
男女共学のほかに、選択科目制と単位制を導入したこともあった。選択した時間割に従って、生徒が教室に出向くという形をとったので、休み時間は「民族の大移動」でにぎわった。