新制弘高には校地の拡張という課題があった。須郷洸太郎校長は、PTAと同窓会の同意を得て弘高建設委員会を組織した。弘高の校地は中学校時代のままで手狭になっていた。
昭和二十九年、隣接の報恩寺の墓地約一万二〇〇〇平方メートルを買収したが、その拡張工事のとき思いがけない発見があって話題を呼んだ。報恩寺はもともと天台宗で、津軽家の菩提寺として由緒ある寺であったが、一二代藩主を継ぐべくして夭折した承祜(つぐとみ)公の墓所から遺体が発掘されたのである。俗に承祜公のミイラと称せられ、長く長勝寺に安置されていたが、平成七年に至って、津軽家の希望により火葬に付され、同寺の霊廟に埋葬された。