新制高校の場合、旧制中学校・高等女学校が男女別学であったので、弘前中央高校でも共学の実施に対しては風紀上の問題が懸念されるなど反対の空気が強かった。
昭和二十四年四月十一日、初めて六〇人の男子生徒が「弘前高等女学校」門をくぐった。この日は、五〇年にわたる女学校としての歴史に新しい一ページを加えることになった。しかし施設が伴わず、「青森県高等学校の男女共学は便所の増築ではじめられた」(『青森県教育史』第二巻)というのが実情であった。
軌道に乗りかけたかに見えた中央高校の男女共学ではあったが、かつての弘高女のイメージが強すぎたためか年々男子の志望者が少なくなり、弘高との間で男女を均等に振り分ける入学選抜制度の数次の改正にもかかわらず、三十二年には「七人の侍」と称された全日制男子が最後の卒業生となった。三十三年度からはもとの女子だけの学校に復帰した。少子化や世論の変化によって男女共学が見直されるようになるのは時代が平成に代わってからである。