波乱含みの合併成立

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自治庁は弘前市と石川町の合併に対し、すでに内閣総理大臣が異議なしと決定している以上、三月三十一日までに合併せよとする知事勧告を発するよう督促した。知事は、県議会が合併案を否決しているため苦しい立場にあったが、自治庁からは再三の催促があり、総理大臣の知事罷免権発動もあり得たため議会側に事情説明の上、三十一日付で知事勧告を発令した。当然、これは反対派の猛烈な運動を巻き起こした。石川町長の解職請求や石川町議会の解散請求がなされるなど、市町村合併史上でも例のない争議が起きた。
 知事勧告を受けた両市町は、まず、石川町議会がその日のうちに可決、次いで四月三日、弘前市議会が合併議案審議のために臨時議会を開会しようとしたところ、秋田賢吉石川町議をはじめとする反対派が市議会へ押し寄せて猛烈に抗議し、一時は警官も出動するなど暴動のような騒ぎとなった。その後合併議案は弘前市議会でも可決されたが、石川町では、町長リコールや議会解散請求が結果的には不成立となったものの、合併賛成派と反対派の対立は激化し、町が分裂する状態となった。
 石川町での争議・分裂状態が悪化するにつれ、問題は県当局から自民党県議会議員間へと発展した。分村問題も検討され、すでに問題は地元間では収拾できなくなっていた。自民党内でも議論が出たが、すでに知事勧告が出ている以上、問題は政府中央の裁定にまで発展する可能性が強まった。
 知事をはじめ県当局の政治工作や県議間の政治交渉などで、時間だけが過ぎていった八月六日、臨時県議会が招集された。このときも合併反対派が多勢県議会を傍聴し陳情書を提出するなど、激しい運動が展開された。ようやく翌七日の県議会で、九月一日までに弘前市へ石川町を編入する議案が賛成多数で可決された。ここに四ヵ月にわたっての大混乱の末に、ようやく石川町合併問題は終止符を打ったのである。
 当初合併を否決した県議会が態度を豹変させた理由は、山崎知事の政治工作もあるが、再否決した場合、県政史上前例のない事態になるのを恐れたからである。また、県内で問題を解決できずに中央裁定を仰ぐことになれば、県議自らの立場に悪影響だという意向が大勢を占めたこともある。いずれにせよ知事勧告の発令に典型的に見られるように、中央からの強硬な命令による合併という印象はぬぐいきれないものがあった。
 石川町の問題に限らず、合併問題は明治・昭和前期のときと同様、全国各地で大なり小なり紛糾をもたらすものである。しかし石川町の合併が県議をも巻き込む大問題に発展したのはなぜなのか。一つは国の強硬な要請があったからである。県当局をはじめ藤森市長ら市当局と、桑田石川町長ら町当局の性急な合併交渉が、合併に対する情報に乏しく、意向もまとまっていない町民を十分に説得できなかったからでもあろう。当初、町民の大勢が弘前市との合併に賛同していると見られながら、実際には猛烈な反対運動が巻き起こったのも、合併 推進派の強硬姿勢のためであろう。
合併反対の町議と、これを応援した南郡議員団の執拗な反対運動も、町民の世論に沿った運動とは言い切れない部分がある。たしかに町民の反対運動は石川町内で激しく行われている。その点では、町民の意思を反映した側而もあろう。だが社会党が批判するように、議員団の活動自体に選挙活動と自らの保身を最優先した傾向が濃厚だったことも否定できない。
 石川町だけのことではないが、町民自体にも問題がなかったわけではない。合併に対する冷静な分析よりも、感情的な対立が目立ったことは否定できない。いずれにせよ合併問題は、いったい誰のための合併なのかを、交渉当事者だけでなく、市町村民自らが考えていかなければならないことを教示したものであった。