敗戦により軍都としての機能を喪失した弘前市は、戦後弘前大学を誘致し学都としての発展をめざした・その意味から言えば、市にとって弘前大学は単なる学問の府以上の位置づけを有していた。大学の誕生に至るまで、市当局をはじめ市議会や商工会議所が一体となり、県当局までもが文字どおり挙県一致的な動きを示した。青森医専の学生までもが文部省に陳情するなど、きわめて異例な盛り上がりを見せたのである。市に大学が設置されると決まってからも、県や市の医師会は学生の実習に必要な病院設備を提供するなど積極的な支援を行った。
しかし弘前大学誕生までには青森市との対抗関係だけでなく、教育設備、教員人事、青森師範学校生の身分保障問題など、さまざまな問題点があった。大学設置に対する膨大な資金は、事業自体を県で行う以上、県が創設負担金を出費し、弘前市はそれを援助することになっていた。とはいえ県の出費は市町村に跳ね返るし、大学が弘前市に設置されることから、地元弘前市民がもっとも多くの費用を負担するのは当然だった。
弘前大学誕生に学都建設の構想を夢見て、表面的には沸いた弘前市だが、その構想を具体的に実現するに当たっては、市当局、政財界、教育界、市民相互の連携が乏しかった。政財界有力者たちは政争に明け暮れ、戦後の食糧難、生活難に苦しむ市民にとっても、総合大学を誘致する余裕がなかった。それでも戦後の混乱が静まっていくなかで、市当局や市民の間からも、市が学都として発展するほかに道はないとする声が高まってきた。県都青森、産業都市八戸との比較・対抗意識から、弘前市が出遅れており、市の発展は学都・文化都市しかないと主張する声が高まったのである。