昭和三十年以降も道路舗装や橋梁改築に関する陳情が続き、さらには降雪期における交通の確保のために除雪車輛を購入するよう弘前交通安全協会および弘前商工会議所等から請願がなされた(資料近・現代2No.五〇五)。
また、戦前の昭和十一年以降に市側が積極的だった市営バスの実現について、今度は昭和三十五年(一九六〇)に弘前商工会議所から市議会にその実現についての意見書が提出された(同前No.五〇六)。これは、当市唯一のバス会社である弘南バス株式会社のたびたびの労働争議により、地域住民の足が奪われることを憂慮したためであったが、市営バス構想は今回も結実しなかった。
ところで、中心部の道路の整備に比べ、周辺部ではその交通事情は依然として不便を強いられていた地域もあり、昭和三十七年には北津軽郡鶴田町に隣接する笹舘町会からは、道路拡幅についての請願が出され、採択されている(同前No.五〇七)。それによると、道路狭隘のためバスの通行が不可能であり、五キロ先の弘前市立新和中学校への通学をあきらめ、隣接する鶴田町立水元中学校への通学を余儀なくされているというものであった。