弘前市農協の合併

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昭和三十六年(一九六一)四月、農協合併助成法が施行された。農協合併の目的は、高度経済成長の陰で農業・農村に新たなひずみが生まれてきたことに対する系統農協の組織再編であった。農協合併は西日本の地域で進捗していたが、弘前市の場合、周辺自治体との合併が済んだ後であったこともあり、東北地域では早い取り組みとなり、昭和三十六年九月、弘前市農協合併研究協議会(会長は藤森睿市長)に市内の全農協組合長二八人が参加して発足した(『弘前市農協20年史』一九八五年)。同三十七年十二月、「弘前市内農協(一本化)合併基本計画」が公表され、「組合員一万人のマンモス農協」構想が話題を呼んだ。研究協議会メンバーでの国内合併農協視察を踏まえ、同三十九年三月、合併促進協議会が設立された。同年七月、各単位農協で組合員説明会が開催され、そのほかにもさまざまな小集会や会合が持たれた。各農協での合意を受けて、同年十月二十四日、二八農協のうち、二六の組合長が参会し、「合併予備契約調印式」が行われた。
 新聞紙上でも合併論議が頻繁に行われる中で、昭和四十年(一九六五)八月に各農協で総会(一二農協では臨時総会)が開催され、二六農協のうち、一農協(新和)を除いて二五農協(清水森、和徳、松木平、十腰内、藤代、堀越、小栗山、弘前畜産、豊田第一、清水りんご、弘前市、独狐、鬼楢、東目屋第一、高杉、千年第一、薬師堂、悪戸、船沢、三和、東目屋、小沢、豊田村、下湯口、豊田第二)の合併合意が成立した。
 同年八月三十一日、設立委員会が開催され、組合長斎藤与一(さいとうよいち)(千年第一)、副組合長藤田文正(ふじたぶんせい)(藤代)、専務理事菊池正英(きくちまさえい)(和徳)、りんご担当常務石岡国雄(いしおかくにお)(下湯口)が選出された。
 こうして昭和四十年(一九六五)十月一日、二五の単位農協が合併し、弘前市農業協同組合(組合員七四五八人)が誕生し、県内一の大型農協がスタートした。また、同年十二月二十七日婦人部(部長小林澄子)、翌二十八日青年部(部長石戸谷大一)が発足した。結成時、婦人部は二四〇二人が同四十二年末には五七五九人、青年部は二四七人が年度内には八六一人に急増するなど、勢いが見られた(前掲『弘前市農協20年史』)。

写真183 城東団地にマンモス農協スタート(昭和40年)