ところが、弘前・石川合併に対して、反対していた「分市大鰐町合併派」の八幡舘、森山、鯖石、小金崎の四部落民は、三十四年二月十四日、石川中学校に押しかけ、四部落から通学している同校生徒五六人を、全員大鰐中学校に集団転校させる騒動が持ち上がった。これは、法務局弘前支局が違法として、大鰐町に勧告して収まったが、同年四月八日、分市派の乳井部落では小学生の石川小学校への登校を拒否、神社社務所で寺子屋授業を始めた。翌九日にはやはり分市派の森山部落が、分市派同士の争いで寺子屋授業を始める始末。これは市教委の仲裁で解決したが、このような混乱は、分市という政治運動に教育を巻き込んだもので、犠牲になったのは生徒児童たちであった。その後も分市派の運動は断続して行われたが、昭和三十八年九月三十日、弘前市議会は森山・八幡舘両部落の大鰐町への分市を可決、十月一日、大鰐町議会は受け入れを可決して、弘前市と石川町の合併問題はようやく終止符を打つことができた。
写真191 合併当時の石川小学校