草薙小学校大石寮の設置

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草薙小学校学区の大石開拓部落(のち大石農場と呼称)は、昭和三十八年(一九六三)春入植、大石神社附近の標高二〇〇メートルの原野を開拓して酪農を営んだが、その戸数は一四戸であった。三十九年当時、大石開拓部落から草薙小学校に通学する児童は八人、通学距離は六キロメートルもあった。この通学距離では夏はともかく冬季の吹雪の日には通学不可能であり、したがって長期欠席は当然のことで、心ある父母は分校設置を切望していた。三十九年七月、一父兄が当時の笹森教育長に季節分校設置を直訴したことから、草薙小学校の児童寄宿舎設置が計画された。
 市教委は、季節分校の設置より、大石部落の児童を通年収容する寄宿舎を設置することが、はるかに教育効果を高めると、その実現を図った。幸い四十年度に至って文部省は、小学校の寄宿舎設置を認めることに規則を改正、その年全国七ヵ所に寄宿舎設置補助金を交付することにしたため、草薙小学校寄宿舎設置計画はにわかに具体化した。
 大石部落の父母たちも積極的に協力し、市教委の奔走により文部省の補助金も確定して、四十年九月初めに工事に着手、十一月に早くも竣工をみた。寄宿舎敷地は大森地区の外れ、大石川の流れる県道に沿った一画で、同地区の八代緑朗が無償貸与した。寄宿舎は鉄骨モルタル造二階建てで、児童寝室兼勉強室、食堂、炊事場、浴場などを完備、ほかに舎監室、寮母室も設けられ、総工費は五〇三万一〇〇〇円余だった。
初代舎監は同校教諭下山斌巍(よしたか)、寮母木村むつ子は新たに採用された。入舎児童は草薙中学校へ通う生徒も合わせて一〇人、寄宿舎は弘前市立草薙小学校大石寮と命名され、四十一年一月六日、落成式ならびに入所式が挙行された。

写真194 草薙小学校大石寮全景

 しかし、大石農場での酪農は、その後の経営が軌道に乗らなかったため、農業を離れ、農場を去っていく者が相次ぎ、昭和五十四年に至り、ついに入舎児童が一人になったところで市は大石寮を廃止することに決め、一三年にわたる短い歴史に幕を閉じたのである。