こうした動きのなかで、それぞれの学校に「自治会」が誕生した。この名称は、生徒の自治権を無制限に認めるものと誤解されることを恐れ、好ましくないという文部省の見解がその後示され、自治会はやがて生徒会という名称に統一されていったが、弘高は「生徒自治会」という当初からの名称を存続させた。
しかし、現実の自治会活動は、その理想とはかなりかけ離れたものであった。生徒大会は「アッセンブリ」と称されていたが、生徒による全員集会はかなり荒れるものと相場が決まっていた。最大の原因はクラブの予算争奪にあった。これは、生徒自治会が十分な機能を果たすほど成熟していないために、議論のための議論に陥りがちで、クラブ幹事会のメンバーが自治会全体のことよりも、利益代表としての役割を果たすことのみに汲々としていたことにも一因があった。このころに、自治会役員でもあり、新聞編集局員でもあった長部日出雄は、その辺の消息について、「生徒大会」という一文を『弘高新聞』一四一号(昭和四十八年七月)に寄せている。
その頃の弘高生は、生徒大会を心から楽しみにしていた。それはわれわれの政治であって、しかもレクリエーションだった。近ごろ「直接民主主義」という言葉を聞くたびに、ぼくはあの生徒大会を想い出す。当時の弘高は、ある意味で「民主主義」の実験室だった。
戦後を引きずっていた昭和二十年代から三十年代にかけての高校生たちは、民主主義の洗礼を受けた初めての世代とも言えた。しかし、自治会に参加しているという意識は次第に薄れて、マイホーム主義がマスコミで採り上げられるようになると、高校生も例外でなく、個人のなかに埋没する傾向を示すようになる。さらに「三無主義」は全国の高校を巻き込み、それにつれて教育の荒廃が社会問題にまで発展した。こうした風潮のなかでは自治会活動が低調になるのも必然と言えた。自治意識の変容を象徴するかのように、一般の生徒はあまり動かず、執行委員長の選出をめぐって難航する事態がしばしばあった。
四十四年一月三十一日午前一時五十分ごろ、南側校舎から出火、真夜中で発見が遅れたのと冬場の水不足がたたって校舎一棟を全焼した。弘高は、明治時代に全焼したことはあるが、鏡ヶ丘に移ってから七十余年、校舎の消失はなかっただけに惜しまれる。火災の原因は、在校生による放火という思いもかけない事実も判明した。
明治十三年の開校以来、昭和五十八年は弘高の創立百年の年であった。五十五年一月には「弘高創立百年記念事業協賛会」が発足し、これを中心として記念事業や行事の計画が進められることになった。記念式典は、五十八年十月六日挙行された。特別来賓は北村青森県知事をはじめ二百余人、一般来賓一八〇人、参列者は二三五三人であった。式典は、百年記念にふさわしく、厳粛にして荘厳ななかに進行した。第二六代片岡維新校長は、式辞で「知力と体力を練り、人格を磨くというこれまでの文武両道につけ加えて」百年の蓄えを糧に「弘高二世紀の黎明に当たって諸君の奮起を切望する」と述べた。