弘前聖愛高校の教育と移転

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昭和四十三年四月、弘前学院は、東北学院大学から新院長として赤城泰を招聘した。赤城が学校の方針として掲げたのは「自由と責任」であった。その精神を教員、父母、生徒へ浸透することを図って、次年度からの重点目標とした。当時の『聖愛新聞』に次のような一文が寄せられている。
私達の学校では「自由と責任」ということが色々な場で語られるようになっている。(中略)規則で縛り、また規則に従うことはたやすい。もっともむずかしいのは、自由を正しく生かし、責任をもってそれを用いることである。私たちは、学校の中で、できるだけ規則を少なくし、逆に自由の範囲をできるだけ拡げようと思う。(中略)「自由と責任」とは「より大きな自由、そして大きな責任」ということである。自分でまいた種子は、自分で刈り取らなければならない。

 このような「自由と責任」の考え方は、教職員や生徒に対して新鮮な感動を与えた。また、これと関連して、服装規定をはじめその他の規則についても、生徒の自主性を重んじた大幅な改訂がなされている。
 このころ、弘前学院では四年制大学設置の構想があったが、財政の破綻を憂慮する声もあり、難航していた。その構想とは、大学と短大を稔町にある運動場に新設し、高校、中学校は現在地において抜本的な整備を図るというものであった。一方、同じころ、坂本町の校地の一部が都市計画街路にかかることがわかり、路線変更を市に陳情していた。赤城院長は、これらの問題を解決し、構想を実現するためにも呼ばれたのであった。学院総合計画企画委員会を設けるなどしての数年に及ぶ議論の結果、四十七年、坂本町の校地、校舎をすべて売却し、移転するという結論を見ることになった。
 四十八年六月、市内原ヶ平で聖愛高校と聖愛中学校新校舎の起工式が行われ、翌四十九年四月には落成した。移転作業は十日間にわたって行われたが、全校教職員、生徒、父兄が一体となって連日精を出した。かくして、明治三十四年以来、七十余年の歴史と数々の思い出を刻んだ坂本町の地に別れを告げたのであった。
 新校舎の献堂式は、同年六月二十三日に行われた。新天地の原ヶ平の地は、周囲をりんご園に囲まれた郊外にあり、教育環境としては最適の地と言えるだろう。五十二年には、教育目標を「キリスト教を学ぶことにより、信仰を求め、正義・愛・献身を体現する人間を育成する」と定め、各目標を具体化するための教育方針を一貫して追求し、現在に至っている。
 弘前学院聖愛高校は、昭和五十一年に創立九十周年、六十一年に百周年を迎えた。九十周年には、英語教育と音楽教育の集大成とも言うべき記念英語劇ミュージカル『マイ・フェア・レディ』が公演され、百周年にはNHK交響楽団を招いての演奏会が行われた。いずれも、市民会館を埋めた満員の観衆を魅了した。