弘前工業高校の校訓に「品性は力なり、勤労は使命なり」とある。各科の特性を活かしながら基礎を確立し、校訓の精神にある自己の実現を期し、校風を守りつつ、東北有数の工業高校に発展させてきた。
昭和三十三年、定員が一三二〇人となり、工業高校としては県内最大規模のマンモス校となった。ベビーブーム世代が進学の年齢に達したのと、高校進学率の向上によるものであった。これより先、弘前工業高校では、老朽校舎の改築や実験・実習室の増築を逐次進めていたが、三十四年に始められた抜本的な増改築工事は、四十四年の管理棟の竣工をもって一応の完成を見るに至った。
工業系高校は、常に時代の要請とともにその歴史を刻むもののようで、新制高校発足当初、五科からスタートした弘前工業高校の科の編制は、三十八年に木材工芸科が「工芸科」に改められ、四十年には建築科、工芸科、電気科で男女共学となって、初めて一九人の女子生徒の入学を見たほか、四十一年には「電子科」を新設、四十八年に工芸科を「インテリア科」に改称、四十九年「情報技術科」、そして平成元年に「電子機械科」が機械科から独立するという歩みを見せた。