市村合併と公民館

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戦後から現代までの社会教育活動で、公民館の果たした役割は大きい。ところが、弘前市に公民館が設置されたのは、昭和三十年(一九五五)の市村合併によって、中津軽郡一一ヵ村の公民館がそのまま市に引き継がれてからのことである。それ以前の弘前市には公民館施設はなく、社会教育事業としての各種研修会は市内の学校を会場として行われていたが、いわゆる公民館活動はなかった。したがって、合併によって公民館を引き継いだ弘前市にとって、公民館行政は社会教育の新しい、しかも重要な施策の一つとして、真剣に取り組まねばならない大きな課題であった。
 合併によって市が引き継いだ公民館は本館・分館合わせて、七三館の多きに上る。しかし、その建物たるや公民館として新築されたものはほとんどなく、部落の集会場を転用したもの、消防屯所や農協事務所などへ併置したものなどで、公民館として利用価値ありと認められるものはわずか一〇館にすぎない実状であった。
 そこで市では、三十年四月から新たに社会教育課を設け、早速に公民館設置条例を制定した。その組織機構は、本館一館、支館一一館(旧行政区域に一館)、分館六一館の三本建てとしたが、翌三十一年、施設、職員、予算などの面から早々に組織機構の再検討を迫られることになった。その結果、社会教育課に併置されていた中央公民館を独立させ、支館を廃止し、分館中心の活動を目指したが、分館の数が多く、その活動にもむらが見られたため、これら分館を統廃合し、三十九年、三中央館(中央・西・東公民館)、七分館制へ組織が再編された。
 この年、中央公民館は、新築なった市民会館へ事務所を移し、以後、自主的運営の基盤が確立されると、分館における公民館活動にはめざましいものが見られるようになった。その後、住民主導型の公民館活動をより充実すべきであるとして、五十二年、一中央公民館、一二地区公民館へ組織を手直しし、これら地区公民館へは従来の領域(少年・青年・婦人・成人)指導員のほか、より専門的な社会教育指導員を配置して、円滑な運営の展開に努めることとした。